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高原教育



 私ごとですが、私が東高の生徒であったのは昭和24年の東高発足時、1年生として入学したので、同窓会の1回生、2回生の方々は、先輩の3年生、2年生として、4回生、5回生の方々は私が3年生になったときの2年生、1年生で、互いによく知っているわけです。
大学を卒業して、東高の先生として昭和31年に勤務した時は、山脈10回生の皆さんの入学と一緒に東高に入学したわけで、当時の2年生は9回生、3年生は8回生です。これから昭和37年まで、東高に居ましたから、10、11、12、13、14回生(特に12、14回生は担任として)の方の授業に出ました。15回生は1・2年、16回生は1年の時だけ授業に出ました。
昭和46年に再び東高に帰ってきて2年生の担任になりました。この人たちは山脈24回生ですので、山脈17〜21回生はよく知りませんが、昭和46年以来、平成6年退職までずっと東高に勤務し退職後も時間講師で昨年平成16年3月まで途中ちょっと抜けた時がありますがほとんど授業に出ていました。(現在は、華道部の講師のみに出ています。)

昭和46年に東高に帰ってみますと、以前全校で行っていた臨海学校は1年生のみとなり、2年生は高原教育(大山、2泊3日)となっていました。これは修学旅行の代わりのようです。

修学旅行は昭和25年の富士登山や、関西方面旅行に端を発していたものが、以後関東方面(鳥取−大阪−江ノ島−鎌倉−東京−日光−鳥取)や九州旅行5泊6日が行われていましたが、交通事情が悪化ということで、昭和41年3月の九州一周旅行が最後となり中止となりました。そしてそのかわりに 昭和41年7月18日から3日間2年生の「校外学習旅行」が京都比叡山で行われました。昼間は、自然探訪、文化史蹟巡り、夜は文化講演会(第1夜は比叡山大僧正葉上老師、第2夜は京都大学小倉親雄(柏葉4回生)教授)を聞きましたが、日程に無理があるという反省があり次の年昭和42年から大山鏡ヶ成での高原教育となったようです。

『最初の年の昭和42年は、準備期間の関係もあって2年生550名全員をキャンプ生活させるためのテントの調達ができず、150名の希望者だけ野外生活をさせ、残りの生徒は国民宿舎の方に宿泊させた。又、当時の鏡ヶ成周辺は、国民休暇村指定直後で、まだ道路が整備されておらず、人跡まばらな山地を地図を頼りに、高地に登っては見通しをつけて前進するという苦難な状態にあった。昭和45年には生徒全体のテントができ、キャンプ生活をすることができるようになった』。(創立五十周年記念誌)
1クラス43〜44人が5〜6人に分かれて夫々がテントを張り、自炊のキャンプ生活をする――事前に山岳部の生徒が中庭でテント張りの指導をし、各班のテントをもらって大山へ行く――。
高原のしおりには、
高原教育の目的から始まって、日程表(詳細なもの)・生活関係諸注意・装備表(個人と各班)。野営場施設配置図・テント設営位置・テント設備および撤収の要領・登山の諸注意・登山日程(大山コース、烏ヶ山コース、大山滝コース)登山要領・地図・キャンプファイヤー日程および担当・食事献立(例)・班編成テント番号・登山コース氏名表などなど。

 第1日 8時30分 バス10台で学校出発 蒜山で昼食、13時鏡ヶ成集結、13時20分 開校式 テント設営 身辺整理 夕食準備
 地面にパネルを敷いてテントを張るのが一苦労。炊事は薪を使ったことのないものが多く、炊きつけの枝などを先に燃やしてしまって、あとでどうしよう困った困った・・・など。指導の若い先生も、紙や小枝を燃やしてしまって、あとはおまえらでやれ−?など。男子の中で考えて準備をしてきた班はバーベキューのいい匂いをさせていたり、女子の班はソーメンにチェリーなどだけで、そんなものを食べていては登山ができないのではないか、と思われたり−職員も生徒の班に食費を出しておいたので一緒に食べさせてもらいました。トイレには蚊がわんわんいる、そして昔流の上から落とすと打って返えしが来る式なので、よう使いません!という生徒は鏡ヶ成の国民宿舎の方まで連れていきました。
21時30分消灯。職員はそれから4人ぐらいで1時間ずつ手分けして1時30分まで巡視。何とか寝させようとしました。
 第2日 5時30分起床。朝食準備、後片付け、6時登山弁当配布、7時20分ごろより各登山隊出発。昼食は、現地で取って、大山隊は16時帰着。烏ヶ山は大体13時30分、大山滝は14時帰着。夕食準備、食事、後片付、自由時間。19時キャンプファイヤー 21時終了。
 キャンプファイヤー(各自トーチ家から作って持参)19時25分開会宣言「遠き山に日は落ちて」
トーチ入場。点火のことば。点火「燃えろよ燃えろ」営火長挨拶。
19時40分  フォークダンス
20時30分  トーチサービス
20時36分  採火
20時37分  分火
20時50分  学年長挨拶「校歌」
20時55分  閉会宣言
 夏の感激は、東高祭でシンボルを燃やして踊った時に勝るとも劣らぬものでした。
22時     消灯 就寝。
 職員は、興奮し盛り上がった生徒を寝させるのに2時まで予定を組んで巡視しました。皆うまく寝てくれたかな?
 第3日
6時     起床、朝食準備、後片付
8時30分   ルーム別行動
10時     昼食準備、後片付
11時10分  テント撤収、清掃
12時30分  閉校式
13時10分  出発
16時     鳥取帰着
 大体以上のような日程で毎年高原教育が行われこれも東高生活における友情、心の交流、互いの固い結びつき−クラス、学年−の団結などの出発をうながすものの一つであると思われていました。
 しかし事前準備、当日の山道の整備、危険箇所の手当て、キャンプの指導・・・問題点・困難点が多くありましたが何とか平成4年まではこの行事が続けられました。
 平成4年より高原教育は、冬季高原教育として雪の氷ノ山で1月29日〜31日行われることとなりました。
 当時の卒業生の東高生活における修学旅行や、高原教育の思い出は、現在は冬季高原教育の思い出に変わっているようです。