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普通科単独6日制に



 現在、東高同窓会の会員数が、2万4千人を超えてますが、東高山脈の9回生(S33年3月卒)までは各卒業生4クラス約200人、10回生(S34年3月卒)より急増期の15回生(S39年3月卒)までは、6クラス約300人で、それ以後は12クラス約600人、11クラス(約500人)が29回(53年3月卒)まで、それ以降10クラスとなっているようです。
 昭和30年には学区制が解かれました。それまでは市内の若桜街道より東側は東高へ。西側は西高へ。したがって兵庫県の浜坂・居組・豊岡などは東高。気高・青谷・浜村などは西高とされ、旧制中学校の在校生は、一中、二中、県女などの区別なく学校を決められました。また、八頭郡の生徒は八頭高へ、泊などの生徒は倉吉東高へやらされました。  また、東高発足当時から、早々と実施されて来ていた五日制が他校に比べて最も遅くではありましたが学区制と共に廃止されました。
五日制の土曜日は校内大会−ほとんどの種目を行いました−、補習、研究授業など。もちろんクラブ活動も。このため誰もが複数のクラブに所属していました。私は10クラブぐらいに入っていてその上生徒会活動もしていました。勉強などはいつやれてるのかな?  新制高校三原則は、総合制、学区制、男女共学でしたが、総合制と学区制が崩れてきたわけです。
 『昭和27年当時から、すでに高校再編成の話は出てきたが、年度末、いよいよ本決まりとなった2月ごろから「校名問題」が持ち上がった。そして職員会議だけでなく、生徒会やPTAの方でも議論を呼んだ。普通科は単独で、独立し工業科と農業科が一緒になることになったが、そのときの校名「鳥取実高」に対して工業から反対が出て、「鳥取工業」ならいいと言い、農業科は反対。どちらも鳥取東高を主張した。その上、西高が「鳥取高校」にしたいと言い出して混乱に輪をかけた。「鳥取東高」というのは価値のある名だったのである。  昭和28年度、普通科、工業科、農業科で構成されていた総合制の東高は、この年分離して普通科単独校として独立することになった。
 結局、普通科は「鳥取東高」を名乗って、校章・校歌なども引継ぎ、工業科と農業科が一緒になって「鳥取高校」を作った。』(創立50周年記念誌より)
 昭和30年には五日制が廃止され翌年の10回生からは五日制になり中には、ダマサレた?!と言っている人もいましたが。

 50〜60年前の東高時代にあったことを思い出すままに二、三書いてみます。
◎ 農繁休暇 昭和24年は6月9〜12日。10月24〜26日。
◎ 厳冬休暇 旧正月休み。2月16〜20日。以降毎年同じころに3〜4日学校が休みになりました。
◎ 遠足 毎年春と秋。学年全体行動として行いました。近いところでは久松山、砂丘、霊石山、空山。秋にはバスで、小鹿渓、高清水公園、戸倉峠、大山。HRで行先や行き方、クラス単独か学年かなどほとんど生徒が決めていたと思います。
◎ 生徒会活動 三校舎(普通科、工業科、農業科)全体の議会の議席は−代議員といってましたが−直接立候補制でした。
投票前は、ポスターを学校中に張り出したり、廊下で休憩時間中演説をしたり、投票日には校舎の屋根に出て、自分への投票を呼びかける人もいました。
 代議員会は一日かけて、三校舎のメンバーが集まって議論をしました。それぞれの校舎の利害が絡まって血を吐くような言い合いでした。予算案の審議の時は一日ではすまなかったです。私なども河原に引っ張り出されて文句をつけられましたが、『わしを殴ったら代議員会で言ってやる!』とかえっておどかしてやったこともありました。