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東高の理科あれこれ
昭和24年東高発足当時の理科教室は、玄関から見て三ノ字形の校舎配置の中央の二ノ字の位置(中校舎)一階左はしが生物教室で、その右隣が生物準備室。三ノ字の一番上の位置の校舎(南側校舎)の右側が、平屋建てで、右はしが化学実験室(第二回にはプリントミスで準備室となっていました)、次で理科準備室、物理教室(階段教室)でした。
昭和31年はまだ、この教室でしたが、物理、化学の理科教室が作られ、昭和32年6月5日に竣工記念行事が行われました。
三ノ字形の校舎の上(南側)にもう一本線を引くように新理科教室ができました。左端より、化学実験室、同準備室、化学講義室(予算の関係とかいうことで、ちょっと狭い感じでしたが)、物理実験室、その奥に、同準備室。
この日は、記念行事として、@研究授業、A視察懇談会、B小宴 が学校とPTA主催で行われました。
研究授業は、物理 3年A,D組 横川教諭山脈9回の理系のクラスの人が生徒でした。グループ別物理実験14項目。
化学 1年E組 藤井教諭(化学実験室)山脈11回の生徒で、実験室のテーブル表には名前と出身中学が付して書いてあり、生徒にいろいろ聞いてやって下さいと案内してありました。「溶解度の測定」実験。
化学 1年C組倉恒講師(化学講義室)「酸素にはどんな性質があるか」 講義と供覧実験。
東高が発足したときより理科の先生としてはこの三先生。物理 横川芳彦先生(24〜40)、化学 藤井睦雄先生(24〜34)、生物 生駒義篤先生(24〜40)に教えていただいていました。加藤(下山)艶子先生、井口秀治先生、大家吉克先生もおられましたが。
昭和31年になると、それまで200人だった新入生が、300人になるので、理科の先生の数も増えて来ますが。この年までは、東高4クラスが6クラスに増えてき、他校に比べて生徒数は少ないが、進学率は一番よいと言っていたのが、少しゆるんできはじめます。
卒業者数が、山脈9回までは200人だったものが、山脈10回〜16回 300人からだんだん375人となり、17回(昭和41年3月卒、38年入学)は600人以上 12クラスとなり、1クラスの人数も 50人以上となって来ました。
現在は400人、10クラスとなって来ています。
* * *
研究授業が終わってから、視察懇談会が行われ、新米講師の小生は参加の先生方から いろいろ指導を受け、ギュウギュウやられたことを思い出しました。
それから講堂で小宴。ゴザを敷いて、折詰と二合瓶で祝賀会が行われました。
いつのころからか学校で酒をのむことができなくなりましたが、当時は卒業式のあとなどでは、体育館にゴザを敷いて、祝宴−謝恩会−があり、3年の担任をした時など、保護者から酒をもらって大変でした。以前は、職員会議も、熱が入ると6時、7時となり出前を取っての食事が9時10時になることもあったり、卒業認定の職員会議が終わると、3年の担任団が、ストーブでするめを焼いて、全職員にお礼の一杯を出したり、職員会議がおおもめにもめて、ケンカ様になったあとなど、職員室で互いに一杯飲むなどのこともありました。 皆がクルマで通勤しだしたので禁止になったのでしょうか。
東高の化学の授業−特に実験は今考えても大変なものでした。
藤井先生に昭和28年度(1953)化学レポート(第1学年の巻)実験項目が37まであります。これは生徒が実験し、その結果をまとめて提出するもので、各自に渡すプリントです。
同じく、同じ年の(第2学年の巻)は実験ナンバー28から始まって59まで。
1952年の化学実験(レポート用紙綴)では実験1から、実験95まで、さらに実験上の注意が、10頁にわたってビッシリとつけ加えてあります。
化学の「大日本図書」の教科書に載っている実験に加えて適宜実験をされたためです。
▲新理科室で藤井・岸本先生(S32.4)
実験は4〜5人で班に分れ、各テーブルで行います。実験箱(各種実験器具が入っている)を使い、不足のものは教卓上又は、準備室から持って来る。基本的な器具の使い方などは、学年の始めに2〜3時間かけて指導されました。
実験準備のために4〜5人が当番で、前日の放課後溶液作成、試薬、器具そろえなど行い、実験が終わった日の放課後、又後始末−器具を洗ったり、棚に返したりしました。
▼取り壊し前の理科教室(S32)
レポートの次の化学の時間に提出。先生の方もこのレポートを点検するのが大変な仕事でした。うかうかすると、点検しないレポートが溜まって来て、とてもとても大変な仕事でした。
内容はもちろんですが、計算や、まちがった字を直し、そしてレポートの採点をして返却するのです。
大学受験の浪人生が、勉強を兼ねてアルバイト的に実験の手伝いもしていました。
実験用の白衣を全生徒に買わせたこともありました。当時の東高の化学は日本の化学教育の先端を行くものであったのではないでしょうか。授業も2時間続きで行っていました。実験をやる時間が充分に取れるためです。
藤井先生は、昭和34年9月鳥取商業高校の教頭として転出されました。当時としては異例の若い教頭でした。42才でした。しかし元来御身体が丈夫でなく、教頭の激務のためか、更に身体が悪くなられ、筋萎縮症ということで38年ごろは入院−8月終りに亡くなられました。山脈13回ぐらいまでの卒業生までは先生にいろいろ指導していただいたのではないでしょうか。
横川先生も昭和40年4月まで、本校に勤務されていましたので、山脈17、18回ぐらいまでご指導いただいたのではないでしょうか。このごろ足腰の調子が少しお悪いということで、街を歩かれる時、杖をついて、ぼちぼち歩いておられる様で、奥様にお聞きすると、大好きだったお酒もキチンと止められたということです。
生駒先生も昭和40年4月に転出しておられます。大変お元気で、今も地衣類の研究をしておられ、昨年は「2000 outstanding Scientists of the 21st century」に登録をされ、今年平成15年1月26日「日本地衣学文献集」「日本地衣学詳史」「日本産地衣類目録」※の出版記念と、登録されたことの祝賀会、講演会を行いました。足が少し不自由の様ですが御元気です。
現在の理科室は、特別室棟として昭和51年3月31日に竣工したもので、物・化・生の教室が入り、他に音・美・書などの教室も入っております。
※生駒先生より、これらの出版物、その他沢山いただきました。私がもっていても猫に小判です。有効な生かし方があればお知らせください。
▲化学の準備室で実験の準備と授業をする筆者
【文中の写真は筆者提供】