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臨海学校あれこれ



 昭和24年4月1日より新制度に従っての『鳥取東高』が誕生しました。この日までは「男女7歳にして席を同じうせず・・・」などといわれ、幼稚園は男女一緒でしたが小学校より男子組、女子組と分離されていて、はっきりと男子だけ女子だけの学校でした。当時は話をするのはおろか、ちらっと女子学生に方を見た−ということで鉄拳制裁(拳骨でなぐられること)を受けるような時代でしたから、ホームルーム活動、教室での勉強などいろいろ大変でした。
 これまでは映画も見てはいけない、映画館に入ったのを見つけられたら親は呼び出し、本人は謹慎といった時代でしたが、これも急に映画を見ることが解禁され、学校に映画部ができ、映画部員は映画館のフリーパスをもらえたりしました。そして外国映画の恋愛キスシーンなどが大変話題となって来ていました。
 そんななかで、初めての臨海学校が24年7月30日にクラス別で日帰りで行われました。
 交通事情なども勘案して と記録にありますが、男子は海水パンツ、女子は昔風のシミーズのような海水着でした。
 兵庫県の諸寄でした。独自てんでんばらばらで、汽車に乗り、諸寄に行き帰って来ました。海でボートに乗って沖へ出る生徒を担任毎に、自分のクラスの生徒を双眼鏡で監視されていました。男子生徒、女子生徒が遠くで、裸に近い状態で何をしているか――ということが重点だったようです。

 昭和25年の夏は、前年のように各ルームで別々に諸寄に海水浴に行っては付添教員の負担が重すぎるという反省の下で、学校でまとまって海水浴に行くことになりました。
 私は二年生でした。男女共学なのですが、選択コースの関係でか、男子生徒ばかりのクラスで、担任は世界史のM先生でした。諸寄小学校を借りて、板敷の教室に寝ました。女子の多いクラスは畳の作法室でした。駅の近くのお寺に泊まったクラスもありました。
 食事は各クラス毎の自炊で、御飯炊き、料理作りも当番割りにしました。M先生にもイカのサシミを作ってもらったことを覚えています。このころの諸寄の海は海面から泳いで見ても底にいるサザエがわかるほど私のような素人でも簡単に潜って取れるぐらい沢山いました。水中眼鏡をして岩に顔を近づけて見るとアワビも、小さいものがいくつか取れました。夕食の時は、サザエやアワビをサシミにして、校長先生も来ていただき、どういうわけか、ビールやウイスキーが出てきて先生方に飲んでもらいました。生徒はもちろん飲みません。担任は躊躇しておられましたが、校長先生がよかろうといわれました。 (上)昭和24年の日帰り (下)昭和33年のフォークダンス
 担任の先生が沢山飲んで寝られたあと、皆が砂浜へ出ました。学校の物理のY先生に話の水をむけると、身振り手振り面白く酒を飲む話(このころ、戦争、戦後中はアルコールが不足していましたから)焼酎を番茶で割って飲む話、サイダーで割って飲む話、ちょっと飲んだら鼻をつまんで走るとよく酔うという話などいろいろと話していただきました。
 どういうわけか大きなヤカンを持って来ているものがいて皆でまわし飲みをしました。海岸の燃えそうなものに火をつけてファイヤーストームをやりました。きれいな星の下、走ったりデカンショ節や、ノーエ節で踊り狂いました。海岸で火を付けて燃やしたのは、船を引き上げる時の木などであったと翌日この事を大いに叱られました。自炊ではカレーライスなども作りました。各クラスてんでんばらばらの献立です。
 夜、作法室で、数学の井上先生が尺八を吹いておられ、我々もそちらへ行きました。知らぬ男の人が神妙にかしこまって聞いておられました。先生は、「君いつの日か帰る」ホーリィチンツァイライを吹かれて我々に歌を教えられました。民謡や、流行歌などいろいろ、茶色というか褐色というか、黒くなった尺八で自由自在に吹いていただきました。先生の尺八を聞いていた人は、諸寄の琵琶のお師匠さんだということでした。

 昭和26年は、私達は3年生になりました。この年は学年単位で臨海学校が7月23〜24日東浜で行われました。一、二年は全員でしたが、三年は希望クラスのみ。
 私達三年B組はやはりM先生の担任クラスで、参加しましたが隣のクラスの3Aは不参加、担任の物理のY先生は学校の方の付添で来ておられたところが、海岸に出てみると3Aの生徒が沢山勝手に来て遊んでいました。学校の方では生徒は海から上がれと指示を出されると、わざとぞろぞろ海へ入りこみ、生徒全員海へ入れと号令をされると海から上がって来る――といったことをして面白がっていました。東高を卒業してから、先生と一杯飲んでいるとき、この臨海学校のクラス生徒の行動のことで、ずいぶん他の先生に言われた――とこぼしておられました。
 昭和27年は、鳥取大火の後なので、臨海学校が行われたかどうか?
 昭和28年は、再び諸寄で、二泊三日、「浜坂の祭には、男女とも行くことを認める。当日は夕食を早めに済ませ、八時までに帰ること」副食費60円。小学校を借りて自炊。

 東高開校当時から兵庫県の浜坂から通ってくる生徒が多く、諸寄とは峠をこえればすぐ隣という関係で、臨海学校中不足の食料品などすぐに取りに帰れるし、又、「川下(カウスソ)さん」という夏祭りは大変なにぎわいでした。

 この昭和28年度は普通科、工業科、農業科で構成されていた総合制の東高は、この年に分離、普通科校となりました。このとき「鳥取東高」の名称の取り合いがあったとか。
 昭和29年は、7月、鳥工の臨海学校の生徒が東浜に工事に来ている労務者に殴り込みをかけられるというトラブルが発生。直前になって中止。

 昭和30年臨海学校は東浜で全学年一緒に二泊三日。以来、東浜における臨海学校が定着したようです。この年で東高が県内で最後まで行っていた五日制が廃止となりました。

 昭和36年までは全校一、二、三学年
 昭和37年より一年生のみ

 東高の臨海教育は、平成9年に至る43年間続いたのですがこの長い間一人も水による事故がありませんでした。他の学校の生徒や人を助けたことは何回かあったようですが。このことは、宮脇通明(柏葉15)先生、本田義孝(山10)先生方の水泳部顧問の先生方をはじめとする先生方の献身的な努力・指導・水泳部員・水泳能力上位者による事前の海底調査、海流調査、一日中泳いでいる生徒の看視、諸準備、後始末などのおかげだとあらためて思います。

 このあいだ平成13年7月7日「鳥取環境大学校が出来て入学した学生が浦富で二人溺死しました。残念ながら二人とも東高の卒業生だということです。臨海学校がなくなってからの生徒といわれています。