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思い出の先生方



 私は昭和24年(1949)4月、東高開校(開校式は4月12日、工業の体育館で行われた)のとき、1年生として入学し、昭和27年(1952)3月に卒業しましたから、3年間東高に在学した卒業生としては一番古い卒業生ということになり、ひそかに何となく、勝手に威張って(?)います。
 4回生と我々3回生とは大変変わった関係にありました。というのは、我々3回生は、旧制中学、女学校の最下級生として、中学校3年間ずっと下級生なしに来ましたし、4回生は、新制中学校の最上級生として先輩なしに3年間過ごして来て、昭和25年東高に入学して初めて上級生の我々がいるということになったからです。
 前にも述べましたが、高等学校統廃合による学区制でこのとき東高には、東中、南中、岩美郡県外からの受験生が新入生として入学して来ました。北中、西中、気高郡は西高。当時の日本海新聞は、東高が最も難関校だと書いています。
 それで、3回生は下級生の扱いに慣れていないし、4回生も上級生というのはどんなものかどう接してよいかわからない――しかし、戦後の民主・独立・平等・自尊・自治などの考えに従っていましたから少しずつとけあって来て、非常によくなったのです。
 5回生は我々が3年生の時の1年生。私個人で云えば、6、7回生は知りませんが、大学を卒業して、東高に教師として帰って来た時には8回生が3年生、9回生は2年生。そして10回生は一緒に東高に入学したということです。
 10回生も、もう還暦を迎える年齢となった様ですが、この時の新入生の中には、今の東高の校長の田村先生、校医の岸田先生もおられます。それから昭和38年まで東高におり山脈16回までの卒業生は知ったり知られたりしていると思います。昭和38年から昭和46年まで新設の西工業。また昭和46年に東高に帰ってきました。山脈23回(昭和47年3月卒)が3年生、以来平成6年定年退職。それ以後講師として授業や華道部の顧問として東高に御世話になっております。
 東高の歴史の流れとして@開校のころA昭和31年〜37年(何故37年かというと、昭和37、38年ごろよりベビーブームの余波で、高校急増、私は新設の西工業に行きました)B昭和38年、東高も1年生はそれまでの6クラスが、12クラスになり300人ぐらいだったのが600人以上となり(山脈17回)学校もずいぶん変わってきたようです。
 古い資料をさがしてしていましたら、井上竹男先生の補習プリントや、私のノートが出て来ました。井上先生は、昭和24年〜39年まで、東高におられて、米子工専の教授として行かれた方です。解析T、U、と数学の分野がなっていますがテキストがかなりの部分英文で書いてあります。プリントに私も単語を引いて訳をつけた跡も処々にあります。思えば、テストにも英文で書いた問題もあったのでは、と思います。ノートの方もタイトルなどほとんど英語で書いています。英語がよくわからなかった生徒はどうだったのでしょうか。平均点が100点満点で0.25という時がありました。井上先生の授業は、『水の高きより低きに、おもむくがごとく』、順列組合せなどでは中国美人と、西洋美人と、手を握るコタツの座り方、――本当はもっと強烈な表現?!――など、独特の表現と教え方でした。先生は大変タフで、コリ性で、例えば、テニス。毎日、朝早くから、一日中(暇さえあれば)中庭のコートで、練習しておられました。その相手をされていた井村先生は、それで身体をこわした、などと話されたことがあります。そして、魚釣り、特に鮎釣。朝まで釣って学校に漁獲を持って来て見せて、そのまま、授業をされたり、あれはどういう風か今では考えられないのですが、朝から宿直室で、囲碁。
 あの当時の先生方は、大らかな生き方をしておられたようです。さらに、井上先生は、尺八の大家で、臨海学校で、諸寄の小学校に宿っているとき、諸寄の琵琶の先生が聴きに来て、丁重にあいさつをしておられたことがありました。
 鳥取県の囲碁界の本因坊、囲碁名人などNo1の松本二郎さんは、井上先生に手ほどきを受け、やがて先生より上手になり、先生に囲碁の相手をし、そのかわり今度は先生の尺八を習うと云う交換指導をしていたようです。
 化学は藤井睦雄先生に習いました。
先生は身体がお丈夫でなく、東大の研究室から郷里鳥取にお帰りになり、東高で化学の指導をされたわけです。当時の化学の教科書は「大日本図書」のものでしたが、その本の中の実験は全部生徒にさせられました。実験数も80〜100ぐらいあったのではなかったでしょうか。生徒各自が、それぞれ実験し、レポートを書いて提出、それを採点して返す――大変な作業だったと思います。藤井先生も、化学の項目などには必ず、英語を付けて指導されました。当時の東高の先生方は英語がわかってあたりまえということだったのでしょうか。お陰様で大学に行ったとき、英語の術語など、何となくわかったような気がして楽でした。
 国語は昭和32年福知山駅で、列車事故でなくなられた藤原先生に習いました。先生は台北大におられたということで、中国語で漢詩など読まれたりしました。試験問題が大変でした。プリントは用紙裏表びっしり書かれ、2枚も3枚もありました。そしてその採点は皆の答案に赤字で丁重に直し、いろいろ感想など書き込まれて返されました。当時先生は、智頭の方から列車通で、大きな鞄にパンパンに答案を入れ、列車でも採点しておられた様です。先生は校歌の作詞もされました。静かな方で、号を『氷華』としておられました。自分の中には炎が烈しく燃えている――。
 国語のもう一人の先生、旧姓尾崎先生、結婚されて米山美代子先生、ふくよかな美人でしたので「平安美人」とニックネームを献上し我々が2年生の時に結婚されたので、当時は流行歌で高田浩吉の『土手の柳は風まかせ…』という歌がはやっていたのを変えて『米山オカメはトトまかせ…』などと歌いまくったので、担任の前田寿男先生(マーボー)が職員室から飛んできて、「歌うのを止めぇー」と叱られました。しかし、その時は他のクラスが同じ歌を大声で歌って助けて呉れるなど、担任は学校中行ったり来たりがありました。
 教頭の中村高士先生も国語でした。口ぐせの言葉があって、今日は何回だった、など数えるものがありました。中村先生は『柏舟』という号でした。ニックネーム『かばさん』でしたので<海行かば、水くかばね>など、カバのところを強調してこれも大声で、教室で歌い上げました。社会は2年3年の担任でもあった前田寿男先生、世界史、<ゲルマン民族の大移動><ナポレオンの一生>など立板に水の名調子で語られました。<ナポレオンはしみじとしたところのない男だったけろ>名調子が出ると、語尾がチョットあやしくなるのですが、我々はすっかり感激しました。
 物理の横川先生は、我々の隣のクラスの担任で、横川クラス、前田クラスは旧制中学から来た男子ばかりのクラスでしたから、一緒のクラスみたいなものでした。学校中、我者顔で大暴れ、毎日々大騒ぎで、大変楽しくやりました。あれはどう云うわけか、学校でも、街でも、何人か集まって、ぞろぞろ街を歩いたり、だれかの家に行ったり、先生のお宅にも行ったりしました。テストの前は2〜3人ぐらい互いの家に行って徹夜で、一夜づけの勉強をよくやりました。
 音楽の田中妙子先生(現在は、森山先生、東高校歌の作曲家で、甲子園球場の近くに住んでいられ、東高の校歌が、まだ甲子園で流れないが、いつになったら聞かせてもらえるのといわれます。)のお宅はオオチダニ神社の入口のところにありましたが、何人かでおしかけ、ピアノを弾いていただいて、皆で歌ったりもしました。今思えば、独身の女の先生のお宅に男の子が何人もおしかけ夜遅くまでさわいでいたのです。
 3年生の時の正月は、集団で担任の先生や勉強を習っている先生のお宅を襲って上がり込み食ったり飲んだりするもの(?)をねだったりなどもあったかな?

(4列) 宮脇 中尾 山崎 治部田 本家
(3列)森本 山崎 川口 谷口 三橋 山本 米山 角
(2列)増賀 井上 若松 北脇 藤井 橋本 前田
(1列)早田 横川 中村 山下 西村 橋本 鈴木 藤原

鳥取東高校教職員一同・昭和27年3月撮影

 卒業してからは、やはり、先生方のお宅へいろいろ話をしに行ったものです。他の学校ではこのようなことがあったでしょうか。
 物理の横川先生の時間には、皆がいろいろネダって、物理ではない話をしてもらいました。時に酒の飲み方も。当時は酒のないころでしたから、焼酎の飲み方、――番茶で割るとか、サイダーで割るとか、飲んでから鼻をつまんで走るとよく酒がまわるとか――など。
 したがって、臨海学校では、先生方の寝られた後で、諸寄の海岸で、ヤカンに焼酎とサイダーを入れて、皆で走り回る実験もやりました。
 臨海学校については、あとでまとめて書きたいと思います。