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男女共学最初のクラス



 昭和24年4月5日生徒初登校。
ところが『二中の校舎はどこだいなぁ?』何しろ、一中、県女、市女などの生徒は二中に一度も行ったことのないものが多かったので。
 現在の東高に行くには、駅前−国府線を駅の方から大橋の方に行き、大雲院の前から右手を見ると、真っ直ぐな大きな路ができていてつき当たりに東高の玄関が見える――と、大変わかりやすくなっています。(このようにするために、関係者のいろいろの苦心談もあるのですが)しかし、当時の右側「福田のうどん屋」の先、左に勢木屋(唐津物や、その他いろいろの雑貨店)のところの右側に小さい路があって、それを入って前田呉服店(いつもおじさんがきちんと正座してお客さんを待っておられました)の前を通って天神川、三枚橋を渡って、土手を少し左へ、そこでやっと東高の玄関が見える(この周辺は何となく窪地があり、昔の道沿に植えたという小さい杉が少しあり、東高の入口は、高さ1mぐらいの半月形のセメントの校門が左右にあり、学校の区域の境には、小川というか、やや大きな溝があって学校側の土もりの上には白萩が1m〜2mの高さで茂っていました。これが咲いたときは、大変きれいなものでした。
 校門を入った左側は、たしか泰山木やザクロや、いろいろな木が植えてあって、奉安殿がありました。敗戦後、特に進駐軍のやかましい時代でしたから、何も言えない、むしろ、おぞましい感じだったのですが。
 で、がやがや、がやがや生徒が集まり、点呼を受けました。昭和20年の敗戦で、外地にいて引き上げて来た人、予科練に行った人など年齢の大きい人も混じっていたのです。それから、クラス分けで、各ホームルームに行ったわけですが、2年、3年は混合されたクラスでした。7ルームまでが1年生のみの、8ルームから15ルームまでが2・3年生の混合ルームでした。
 東高の校舎配列を漢字の三に例えると、一番下が真中に玄関のある棟で、一階は校長室、事務室、職員室、2階は教室で右はしが生徒昇降口で各種掲示板などがあり薄暗い購買その先にトイレ(女子便所がありませんでした)、トイレに並んで、『控所』−ちょっとした小さい体育館みたいなもの。ボクシング部がリングをはって練習する程度の大きさ、卓球部もここをつかいましたが。
 三の字の中の棒の一階左はしが、生物教室で。実験台のある部屋。(ここが、私の最初のホームルームでした)その隣が生物準備室、それから教室が2つ、二階は教室が4つ、私達2年のときはこの二階の右はしが2年B組(2B)で、私共の教室となり、左はしが、2A、中が2Cと2Dでした。昭和25年には、学年を解いたホームルームはなくなりました。三の字の一番上の位置に、1階右はしから化学準備室、理科準備室、物理教室(これは階段教室になっていました)そして2階への階段があり、左側教室3つ、2階はこの上の部分だけ。三の字の左はしに、例のアンサール様式とか云う講堂があり、その上の方の位置に、他校にはなかったプールがありました。
 グランドの周りはソメイヨシノの桜が丁度最盛期をむかえて、幹太く枝も地をはうようなものであってすばらしい花盛りでした。桜の樹の寿命は50年といいますから、二中は大正11年創立ということですから30年近く経って樹としては一番よい時だったのではないでしょうか。  桜のむこうは麦畑、菜種畑で、鉄道まで何も建物はありません。授業中、煙を上げて走る列車が見えました。授業のない(自分で作ったブランク、又はさぼって)時は、田圃へ出たり、さらに線路を越えて高農の方へ遊びに出たりしたものです。
 さて、初めてのホームルームですが、私たちは『男女七歳にして席を同じうせず。』という教育を受け、幼稚園の時は一緒でしたが、数え年で8歳、小学校に入学すると、男、女はまったく別々の組で、中学、女学校では、女子と話しをするなどはもちろん、女生徒の方を見たなどといって上級生に殴られるというような男女別々、まったく隔絶された世界で成長して来ました。
 それが、とんでもない、一緒のホームルーム。名前が示すようにホームルーム活動やら勉強会やらをするということになりそうです。現在も連綿と続いている東高文芸部誌の、1959年鳥取東高十周年記念特集の中に<女学生なるものをそれまで、まじまじと顔を合わせて語合うことなど、不徳?と考えていたので、今の若い人達ではおかしい程、固く緊張したものである。>(山2奥田澄朗)
 <統合と相成って男女混成のクラスが編成されえました。あの時あの胸のどよめき、未だに忘れ得ぬものがあります。第一に問題の焦点となるのは席の取り方でした。男女交互に並びなさい。男、女、男、女の順です。…前後左右どちらを向いても皆女性、全く面食らいましたね。今でも覚えています。私が初めて女子と話したのは統合になって丁度6日目、それも私が話しかけたのではありません。後ろから声がかかってきたのです。『消しゴム借してつかんせえな』なんと表現していいのかその時の感激。『ホ』わざと声を荒々しくわずか一言、でも消しゴム持つ手は感激にふるえてさえいたのです。…>(山3田中史郎)
 <最初の失敗はクラスに分けられ担任がおいでになるまでの時間に、僕が発議したことでした。「最初に自己紹介しませんか? まづ僕は一中から来た××です。よろしく。」ところで、女生徒群は、急におびえた小動物よろしく一隅に固まって身をせばめ、まじまじと恐怖の瞳を集中させていました。>(山3倉恒貞夫)
 といった様なことで、ホームルームが始まりまり意見発表、クラス討議、リクレーション、クラス対抗各種競技会、生徒会活動、自治活動…がなされて行ったのですが、朝のホームルームが終わると、各自自分の時間割に従って授業を受けました。授業科目と先生と教室が決まっていて。生徒がぞろぞろ自分の勉強教室へ移動しました。「ゲルマン民族」の大移動などと云ってました。
 先生方はどなたもすばらしい学力、人格、教養を持ち、教育(特に自治、民主、独立)に情熱を持っておられました。英語は荒木一雄先生。今もその時のプリントが残っていますが、あの当時は物資が無い時代でしたから、薄い薄い透けるようなザラ紙に謄写印刷で、大学授業レベルの教材を次々にもらいました。荒木先生が、御自分が生徒の時、授業のベルがなっても、その先生が授業を続けていたので、『タイムイズモーネぇ』と言って叱られたという話をされたのをふと思い出しました。授業は毎時間、口頭泡の飛び散るような激しい強烈なものでした。校舎の三の字の一番奥の二階の左端の教室でした。
 荒木先生に一年間教えていただいて、次の2年生になったとき、西高から東大卒の先生というのが来られました。この先生は我々を甘くみておられたのか勉強不足か、荒木先生に習っていた我々の質問に立ち往生で、リーダーの一行目が、一週間たっても終わらない。一年のとき、冠詞の勉強をしっかりしましたから、まず‘the’に対する質問から発して冠詞の特殊例などなど。次に‘be’動詞について…とうとう先生を辞められたとか。
 もう一人の先生は、旧制中学の時に教えていただいた、口をひらけば辛辣な言葉が、ぽんぽん次々と出て来る先生で、『君達みたいなでけんもん教えとるより、家に帰って、寝とって本を読んどるほうが、よっぽどええわい…』といったような方でしたが、テキスト‘イーノックアーデン’をなかなか皆が購入しないので、テキストのないまま教室に出て座っているという状態で、怒った先生が、『お前やは、もう教えたらん。』と言って教室を出られると『ばんざい。』『さぁエスケープ』。2年の時は、英語の勉強を全然しませんでした。ところが、3年になるとき、東西両高校の学力テストか何かあって、当然のことながら英語の学力ががた落ちで、そのために楽しみにしていた修学旅行中止(一部富士登山をした人がいたが)、「3年になる春休みは勉強せえ」ということになりました。私も、英語の文法の参考書一冊、ノートに丸写しして勉強したことを覚えています。3年になったら、若松清太郎先生に教えていただきました。(小樽商高の教授、鳥取商業の校長)おかげで、皆の学力が回復したのではないでしょうか。
 まだまだ、各教科のこと、自治会、生徒会のこと、クラブ活動のこと、臨海学校、東高祭… 書くべきことが一パイあります。

カットは山崎勝彦さん(山脈12回)